進路を戦略的に考える出発点として親御さんが考え抜いておかないといけないこと
この記事は、子供が小学校にあがったばかりというご家庭の相談に乗っているときに出た話がもとになっています。
そのくらいの年の子達が、先行きの暗い世の中でもたくましく働いていける個人になるためにはどう学んでいったらいいんだろうね、という話です。そんな未来のことに確かな結論などありません。ただ、今の日本を含む先進諸国でさわがれている大卒者就職難には、全業界全職種が一様に就職難なのではなく、ホワイトカラー余り・オフィスワーカー余りが際立っている、という事実があります。この事実から状況を想像して、未来に伸ばしていくと、ひとつの印象が浮かび上がってきます。
すなわち、先進国とか成熟社会とか呼ばれるところでは、働くということの意味がもはや労働や所属ということでは済まず、勤勉とか規律とかいったものでは成り立たないものになっている、という印象です。
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<学習は手段である。目的ではない>
人間の行なうことで、ほかの事の役に立たなくても、それ自体として意味があるのは、芸術と恋だけです(この考えに賛同できない人は今すぐブラウザの戻るボタンを押してよそに移動しましょう)。芸術と恋以外のことはすべて、他の何かを目的とし、目的につながる手段として行なわれているはずです(この考えに賛同できない人は今すぐブラウザの戻るボタンを押してよそに移動しましょう)。このことを「合目的性」と呼びましょう。芸術でも恋でもないのに合目的性を実現できていない行為は無駄な行為です(この考えに賛同できない人は今すぐブラウザの戻るボタンを押してよそに移動しましょう)。そのようなことに使われた時間は捨てられた時間です(この考えに賛同できない人は今すぐブラウザの戻るボタンを押してよそに移動しましょう)。あらあらまあまあ。
さて、本題に移ります。
学習もまた合目的性を必要とする種類の行為です。学習は、いかなる目的を達するための手段なのでしょうか。
能力を開発するためだ、とここでは考えます。将来社会に出て通用する職能を得るためだ、難しく言えば、人材水準を向上させるためだ、ということです。この考えに賛同できない人は今すぐブラウザの戻るボタンを押して他のところへ避難してください。このあと展開される冷徹な「願望と現実の区別」に耐えられず血圧が急上昇するおそれがあります。心臓の弱い方にはたいへん危険です。
<能力とはその時点における一定水準以上の専門性のこと。つまり要求は常に上がっていく>
学習が能力を開発するためにあるならば、どういう学習をするべきかという判断は、どういう能力を開発するのか、に依存します。これは一昔前なら○○になりたいという願望を起点に考えればよかったのかもしれませんが、成熟社会ではそもそも人手がかからないので、どこの業界も、専門家ですら席は少ない。しかも変化・革新の起こるのが速いので、能力の寿命がすこぶる短い。
農場・工場ではすでに省人化がかなり進んでいます。農場については、養液栽培といって、光と水だけで土を使わないため工場で農業できる工業的農法がついに事業ベースにのっかってきて、いよいよ投資が加速し始めています。農業の工業化は時間の問題です。半世紀後には食糧生産は高層ビル一本で一地域ぶんまかなうものになっているかもしれません。
工場のほうは、もう白物家電工場は実質無人ですよね。産業ロボット大手のファナックのラインになると、ロボットがロボットを量産してるありさまですし(ファナック工場画像:http://www.fanuc.co.jp/ja/production/factory1.html)。
農場・工場が高度技術者とごく少数の単純労働者以外関与しない場になると、それを後方から管理・指揮するオフィス業務も縮小することになるので、ホワイトカラー労働力の必要性は縮小傾向にあります。この傾向は今後も続くでしょう。
しかも、日進月歩で効率化していく通信技術をちゃんと使えば、人と人が連絡を取ったり話し合ったりするだけなら、離れていても「直接会う場合と同じ精度でできる」ようになっています。新しい通信技術を実用するのが他より早めになる米国のIT企業などだと、本社は米国内にあり(創業地だからです)、研究開発拠点はインドやイスラエルにあり(すごい大学があるからです)、財務の責任者はシンガポールかニューヨークにいる(すごい証券取引所があるからです)、というようなことがあったりするらしく、各部門の長がそろわなければならないような経営会議があっても、物理空間的には一箇所に集まらずに、ウェブ会議ですませたりするそうです。身内同士の話し合いなら、対外的交渉と違い、「誠実さの演出」だとか「実物の迫力」だとかをつくる必要がないので、それですむわけです。このように連絡関係が簡略化されていけば、なくしてしまえる補助的業務がたくさんでてくるでしょうし、組織の命令系統から身内を管理・指揮する中間点を減らしていけるでしょう。そうなると、ホワイトカラーに求められるのは経営の専門家としての仕事であって、その人数はたいして多くない、ということになるのが自然です。これがつまり、昨今顕在化している世界中でのホワイトカラー余りという現象です。
ありていにいって、これからの将来、事務屋しか務まらない状態で世の中に出て行っても相手にされないでしょう。通常業務スリム化を専門とするマネジャーなら、生産的な事務屋ということになるかもしれませんが、管理される側の事務屋はなにも生みだしません。削減されるのは時間の問題でしょう。
これからの若い人にとって、能力ということばは、専門家であるということしか意味しません。昔はどうだったか知りませんが、労働それ自体が価値をもつことはもはや難しいでしょう。分業の中にある業務はすべてルーチン的業務ですし、ルーチン的業務はいずれ必ず機械まかせにできるときがくるか、その業務自体を省略できるときがきます。それを怠る事業体は、事業体そのものがなくなっていくのでしょう。
現代以降の技術は、労働を安く買い叩けるようにするのではなく、労働をなくしていくものです。雇われた労働者が経営者の下で分業するという事態は、今後、開業している専門家や事業主どうしが直に協業するという事態にどんどん移行していくはずです。図体のでかさは生残性の低さと同義、ということになっていくと思われます。
その流れがいくところまでいけば、たとえ安くても労働には使い道がない、働きたい人は労働以外の事をしてくれ、という時代になります。<働くこと=雇われること>だとか<働くこと=労働>だとかいった図式を信じている人にはわけのわからない話かもしれませんが、働くということが金を取るということを伴うかぎり、買い手のつく行動でないと意味がないわけですから、買い手の側から見て金を払ってでも他人に頼むしかないことでないと働きになりません。便利なものが増えていけば、買い手が人間に金を払う局面は減るはずです。便利なものを使って自分でやってしまえばいいわけですから。買い手が自分で解決できることなら他人には頼まないはずですから、人間が仕事を請け負うためには買い手にはできないことをできるのでなくてはなりません。
働くということが、誰にでもできることをするのでは成り立たなくなりつつあります。
ひとつの抜け道として、テクノロジによる鮮やかな問題解決とは異なる、非効率あるいは無用なんだけれども魅力のあることをやってのけ、それで他人を感心させるという道も考えられるかもしれませんが、そういうことを出来る人は芸術家と呼ばれるのではないでしょうか。労働から最も遠いものです。いちばん難しいことでしょう。
これからの時代、能力ということばの持つ意味は前例のないほど重い、敷居の高いものになると予想されます。
今15歳以下の人が2020年ごろに社会に出て、引退できるまで50年働かないといけないのだとしたら、半世紀ぶんの技術革新を生き抜かないといけません。2020年から半世紀ぶんの技術革新です。自分で開業できない、研究開発も出来ない、プログラミングも出来ない、経営もわからない、商品が実際に持っている価値をもっと高い価値に見せかける営業力もない、芸術家であるわけでもない、それでもつとまる仕事が2020年から半世紀を経ても残っているとはちょっと想像できません。
今15歳以下の人で、一生遊んで暮らせる資産を継ぐわけではない人にとって、なにをして食べていくのか、どうやって老後に備えるのか、という問題は避けようのない問題ですが、この問題への対処は昔ほど能天気なものではありえません。求められる能力水準は高く、変化は速いのですから。しかも、近代国家の福祉制度というのはそんなに美しいものではなく、帝国主義的な膨張でも無いと維持できない脆弱な金融システム――創始者はドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクですからねえ。あの時代なら、成長が足りなければ植民地からでも敵対するフランスからでも吸い取ればよかったんでしょうよ――ですから、よほどの軍事力と外交力を持つ国以外では、福祉制度そのものがなくなる可能性を視野に入れておくべきです。そろそろどこの福祉国家も財政の限界を迎えつつあります。
今15歳以下の人にとって、働いて稼ぐ、その先にある老後に備えるという課題は、今すでに働いている我々とは比較にならない難題となる可能性があります。
こうしてみると、これからの若い人にとっていちばんいい考えは、「雇われなくても生きていける人間になること」ですが、どうしても、働くこと=雇われること、としか考えられない人は、研究開発要員がつとまるようにするか、経営幹部がつとまるようにすることです。それもだめなら、手に職をつけるしかありません。専門のはっきりした職人・技術者になるのです。
「このことについては自分ひとりに任せてもらって大丈夫です」と胸を張って言える専門家にならなくてはなりません。能力とは、他人に自分を頼らせることができるということ、です。
<能力の種類と能力開発の種類>
これからの若い人は、任務遂行の責任主体となるために、なんの役に立つのかはっきりとした能力を開発しなければいけません。これからの若い人はそういう話に、なるべく早く――高校選びの前にビジョンを定めましょう。知らない人が多いようですが、工業高校や高専は昨今の現実の中でひとつの有力な選択肢として見直されています。普通科高校にいって大学進学路線をとるか、工業高校や高専にいって職人・技術屋路線をとるか、という14-5歳時点での決断は重大です――現実的なものとして関心をもたないといけません。親御さんとしては、頭の痛いところでしょう。
能力や能力開発の話のとっかかりになる図式をまとめてみましたので、これを使って、右に行くのか左に行くのか、まずは親御さんが腹をくくって現実的なところを考え、両親で統一した戦略眼をもつことからはじめるとよろしいでしょう。このとき、決して願望にとりつかれないことが大切です。願望と現実をきちんと区別した上で、現実を確実に実現する手をうつことです。できもしないことに投入した時間は、寝ていたのと同じことですから。
能力と能力開発と職能の図

(高等教育機関を選ぶとき、左にいく教育をできているところかどうかを大学単位で考えるのは無意味になってきている。研究室単位で見極めていくしかない。左に行く人を育てるところ以外の大学のうち、まともなところは右にいく訓練と就職あっせん業を、まともでないところは卒業証明書発行サービス業と就職あっせん業をしている)
左に行くのか右に行くのか、右に行くとしてどの分野のか、によって、中学・高校からの進学先を考える基準が変わってきますし、鍛えるべきメンタリティもかなりちがってきます。右にはきまりごとをたくさん正確に吸収する勉強家の気質が重要になるでしょうし、左には新しいことへの意欲や不屈の行動力といったものが重要になるでしょう。
この図式を使いながら考えると、次のようなことがわりとすっきり思案できます:
左のほうは、現在日本国内に数百万人しかいない界隈なので、門戸が狭く、それがつとまる能力を鍛えたからといってそのポストを得られるという保証はない。結局、自分で事業主となってはじめることを考えないかぎり、現実味は薄いかもしれない。
右のほうが、小中高の勉学の延長上で実現できる界隈なので、実現性が高そうだけれども、経済的に混乱してきている士業(起業が少なすぎる現代日本の閉塞経済では、経済の付属品である弁護士会計士の需要もえらいことに…)をみると、理系職でないと将来性はなさそうだ。しかし、士師業だと日本国内の免許であって日本国内でしか通用しないかもしれないので、日本国内の人口と経済が縮小する見通しの強いこれから、たとえ理系専門家でも予算・人員は減っていくだろうと考えると、よその国でも就労できる可能性のある、エンジニアとして水準を高めるのがいちばん多くの選択肢につながるのではないか…
こんなふうに考えを展開していくことが出来ます。
これは考え方の一例で、いろいろな推論がありえますが、出発点をすっきりさせると、明快に考えを進めていくことが出来やすくなります。
ワタクシがいろいろ見てきて知る限り、若い人は、毎日接している大人から自然に受ける影響を越えて成長することはないですから、まずは親御さんが、願望ではなく、現実的現在を入口として出口まで段取りが見通せる仕事観をもち(つまり、何を達成するのが自分の仕事で、どういうプロセスで達成するのかってことです)、それを実践し、時が来たら、親子でしっかり話し合うことです。具体的に、現実的に。
また、両親の間で統一見解が整えることが大切です。父母がばらけていると、子供は子供にとって都合のよい(つまり甘い)ほうを正しいとみなすだけです。
努力が報われるとはいいがたい世の中(国そのものが縮小するということはそういうことでしょう)で、雇われないと生きていけない種類の人にとって、ただの願望ほど役に立たないものはありません。ある若い人が能力を身につけても、その能力を求めるポストの数より能力者のほうが多ければ、その若い人が仕事にあぶれる可能性は必ずあります。そして、日本列島の総人口が減るということは、日本列島で行なわれる人間活動の総量は減るということですから、そうしたポスト不足は常態化する可能性があります。なにをすれば確実だ、というのは今日ひとつもありません。小中高の学業などはしょせん子供のお遊びです。それを多少うまくこなした程度で、他人の看板にぶらさがっていても老後まで食っていけた低次元な時代はとっくに終わっています。そこに戻ることはありえません。先進国に生れた人間が働くとはどういうことなのか、願望によらずよくよく考えるべきでしょう。
<最後に>
行動経済学者が観察や実験によって確かめたところによると、人間には、自分があきらめたこと、しかたなくやっていることについては、正しい選択をしたんだと思い込む傾向があるそうです。ところで、労働そのものを尊ぶ発想が日本語圏にはあるようにみえますが、日本列島で暮らす庶民にそうした意識が定着したのは江戸時代だといわれています。江戸時代には固定した身分制度があり、職業も世襲なので、働き方を選択する自由などありませんでした(婚姻を通じてべつの職業集団に移転することはあったようですが差異の小さいところとしか婚姻なんか起きないでしょうし)。行動経済学の知見をからめて憶測してみると、選択肢が存在せずあきらめが蔓延した社会が正しいと信じたことには実は根拠などなかったのかもしれませんから、労働それ自体を尊ぶことは根拠のない神話なのかもしれませんよ?なんのために働くのか考えるのをやめているだけかもしれない。江戸時代ならそれもしかたがなかったのかもしれませんが、現代は途方もなく便利で自由です。考えるべきことを考えないで行なうことに緻密さやしぶとさがでてくるものでしょうか。
現代においては働くということは手段であって目的ではありません。能力は手段であって目的ではありませんし、能力開発は手段であって目的ではありません。
願望まみれの絵空事ではない現実的目的というものが出発点にないと、なにもかもが空回りするのではないでしょうか。
学習(教育であれ訓練であれ)が手段であることを忘れてはいけません。能力開発や努力それ自体を信じてはいけない。つねに、それをなんのためにしているのか、を明らかにしておかねば。そして、ものごとがひとつの要素だけでできていることはほとんどなく、ゆえに、ものごとに対処するのに一つだけの手段ですむことはほとんどない、ということを忘れてはいけません。世の中には学習しただけで解決することなんかない。
学習は、若い人がしていくいろいろな修行のうちのひとつでしかありません。このことは絶対にわすれてはいけません。くれぐれも、学力しかない人間は無力だということをお忘れなきよう。こんな乱世ではよけいにそうでしょう。
巨大な老人人口を、開業率の低い不活発な就労人口で支えていかなければならない、成熟経済と福祉制度の国日本では、短くてもあと80年はかかるという老若人口比率正常化までの間、雇われないと生きていけない人には、ある時いきなり選択肢を失う危険がある、ということを見落としてはまずいのではないでしょうか。これからの若い人は、自分で事業できるようになるか、さっさと日本から出て行くか、どっちかしかないんじゃないの、というのがワタクシの私見です。私見であって、それ以上のものではありません。それぞれのご家庭で、それぞれの私見を、ご自身の頭と時間を使って、鍛え上げてください。むろん、何を考えても結局は賭けにしかなりません、乱世ですから。
この記事をお読みになったご家庭の発展をお祈りします。めんどうな世の中ですが、納得のいく賭けをしてください。
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