ウィキ「カーライル」和訳
今日も今日とてすべてこともなきワタクシなのですが、東京外大ドイツ語科志望の生徒と東大の過去問を熟読していたらカーライルが出てきまして、無限とか絶対とかの概念についてちょこっと話し合う機会があったのですが、その流れでウィキペディアのカーライルの項を読んでみることと相成りまして、その授業のために急遽作成した対訳がこれです。ショスタコ11番をBGMにやっていたら実に爽快(?)な気分になってきました。
知性は力、情熱は生命、ひとことで言うと爆裂ってことでしょうか。
日本語としてどう定着させることになっているのかよくわからなかった固有名詞は英字のままです。
トマス・カーライル
トマス・カーライル(1795年12月4日-1881年2月5日)は、スコットランドの評論家、諷刺家、歴史家で、彼の著作はヴィクトリア朝時代にたいへん影響力を持った。
カーライルは厳格なカルヴァン主義の家庭に生まれ、両親からは牧師になることを期待されていたが、エディンバラ大学在籍時にキリスト教への信仰を失ってしまった。しかしながら、カルヴァン主義的価値観は全生涯にわたり残存した。伝統的キリスト教に対する信仰喪失とある種の宗教的傾向との結合は、カーライルの著作を、伝統的社会秩序をおびやかす科学的ならびに政治的諸変化に懸念を抱いていた多くのヴィクトリア人を魅了するものたらしめた。
幼少期ならびに蒙った影響
カーライルはスコットランド、 Dumfries and Galloway の Ecclefechan で生まれ、 Annan Academy で教育を受けた。彼は一家の(および彼の祖国の)熱烈なカルヴァン主義から多大な影響を受けた。エディンバラ大学に入学した後、最初は Annan で、次いで Kirkcaldy で数学の教師を務め、そこで神秘主義者 Edward Irving と親交を持つようになった。1819-1821年の時期にはエディンバラ大学に戻り、そこで彼は深刻な信仰と改宗の危機に直面するが、これがのちの『衣裳哲学』の素材を提供することになる。彼がドイツ文学に傾斜し始めたのもこのころである。カーライルの思考様式はドイツ的超越主義、とりわけフィヒテの著作から深甚な影響を受けることとなった。カーライルは、Fraser’s Magazine に寄せた一連の評論と、ドイツの著作家とくにゲーテの翻訳によって、ドイツ文学の専門家として自己を確立した。彼が人生の大部分をすごした在所は、スコットランドの Dumfrieshiere にある Craigenputtock であったが、彼の著作の多くはそこで生み出された。彼は折に触れて Craigenputtock での暮らしについて書いている。「居住し、思索する上で、これほど好適な場所を、世界中のどこにも見出したことがないと断言できる。どんなに狭苦しい環境に置かれていたとしても、哀れな有限者たち(poor mortals)が、その英知と、天ならびに互いに対する信頼において十全に偉大であるならば、これは実に慶すべきことではないか!」
著作
初期の著作
カーライルは、遅くとも1821年までには聖職者をキャリアとして追求することを断念しており、著作家として生きていくことに専念するようになった。彼の最初の虚構作品の試みが、 Cruthers and Jonsonであるが、これはいくつかの中絶された小説試作のうちのひとつである。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の翻訳に関する仕事の後、カーライルは写実的小説という形式に失望するようになり、新しい形式の虚構を模索し始めた。ドイツ文学に関する評論ばかりでなく、強い影響力を持った評論集 Signs of the Times and Characteristics においては、(当時の)現代文化に対する多角的な批評にも関心を広げた。
『衣裳哲学』
彼の最初の重要著作『衣裳哲学』(1832)は、Craigenputtock で書かれ、新しい種類の書物となることを意図されていた:事実的でありかつ虚構的でもあり、真剣でありかつ諷刺的でもあり、思索的でありかつ歴史記述的でもある。同書は、「真理」が奈辺にあるかという問題と格闘することを読者に要求しつつ、自己の形式的構造について皮肉的に論評している。Sartor Resartus (仕立て直された仕立て屋ということだが)は、Fraser’s 誌上で1833-1834年にかけて定期的に発表された。同作品は、匿名の編集者が英国人読者にドイツの衣裳哲学者 Diogenes Teufelsdroeckh を紹介するという体裁をとっている。もちろんそのような哲学者はカーライルの創作である。その編集者は自らが選集、翻訳したTeufelsdroeckh の異国的哲学を賛嘆するのだが、大部分は当惑している。Teufelsdroeckh の哲学を把握しようとして、編集者は伝記的記述を構成しようとするものの、あまりうまくいかない。そのドイツ人哲学者の一見ばかげた陳述の裏には、英国社会の功利主義と商業化に対する痛烈な非難が隠されている。文書の雑然とした集積の中からその編集者が再構築する Teufelsdroeckh の断片的伝記は、この哲学者の精神的旅程を見せてくれる。哲学者は、現代生活の破綻した様相に対する侮蔑を展開する。彼は断固拒絶する「永続的否」について熟考し、「無関心な中心点」へと到達、最終的には、「永続的然り」を堅持するに至る。否定から無為へ、そこからさらに関与する意志へという旅路は、のちに実存主義的覚醒の一要素として語られるものであろう。
『衣裳哲学』の謎かけ的性格を考えると、本作が最初大した成功に恵まれなかったのは不思議なことではない。同作の評判はその後数年かけて広がっていき、1836年にボストンで書籍の形を取って出版されたが、そのときにはニューイングランド超越主義の発展に影響力を持つラルフ・ワルド・エマーソンが序文を書いた。最初に英国版が刊行されるのは、そのあと1838年のことだった。
『フランス革命史』
1834年、カーライルは Craigenputtock からロンドンに移住し、著名人と交流するようになった。連合王国内でのカーライルの成功は、1837年に2巻よりなる『フランス革命史』を出版したことで確定した。第1巻の完成原稿がジョン・スチュアート・ミルのメイドの過失により焼失した後、カーライルは第1巻をゼロから書き直すまえに、第2、3巻を著述した。その結果成立した著作は、歴史書としては前代未聞なほどの情熱的迫力が横溢していた。革命に対する不安と希望に包まれ、政治的な曲がり角に立たされていたヨーロッパでは、フランスでの出来事を触発した動機と衝動に対するカーライルの考察は、実に妥当性をもって見えた。カーライルの文体はその主張内容をいっそう際立たせ、行動の直接性をつねに強調した――すなわち、彼は多くの場合現在時制で書いたのだ。カーライルにとってみれば、混沌とした出来事には、社会内に噴出して角逐する諸力を統御する、いわゆる「英雄」が必要である。カーライルは、出来事の説明として経済や実践性が重要性であることは否定しないが、そうした諸力は人物に内在する本質的に「精神的なもの」であると考えていた――すなわち、思想という形式をとり、多くの場合はイデオロギー(彼はそれを ‘formulas’ とか ‘isms’ と呼んでいる)へと凝固する人間集団の希望と渇望(the hopes and aspirations)であると、彼は考えていたのだ。カーライルの見解によれば、躍動的な個人だけが、事態を掌握し、こうした精神的エネルギーをうまく方向付けることが出来る。イデオロギー的な ‘formulas’ が英雄的な人間行動にとってかわると、社会はすぐに非人間化してしまうというのである。
『過去と現在』
このような社会の非人間化は、それ以後の彼の著作で追求された主題である。カーライルは『過去と現在』(1843)では、のちにマシュー・アーノルドやジョン・ラスキンに見られるような保守的懐疑主義の調子を帯びるようになった。すなわち、カーライルは、浪費的な19世紀人の生活と中世の修道院長の生活の比較を行なったのである。カーライルの見るところでは、修道士たちの共同体は人間的で精神的な価値によって統合されているが、現代文化は非人格的な経済的諸力やら抽象的な人‘権’説やら自然‘法’理論やらを神格化している。共同体的価値観は崩壊し、カーライルいうところの「陰鬱なる経済学」によって正当化されるばらばらな個人主義や無分別な放任主義的資本主義に成り果ててしまった。
『英雄および英雄崇拝論』
こうした思想は社会主義の発展に影響を及ぼしたが――当時の真剣な思想家の多くが抱いた意見と同様に――おそらくファシズムの勃興にも影響を与えたと考えられる。カーライルは1840年代に彼の後期思想へと移行するが、その結果、ミルやそれよりは程度が小さいがエマーソンといった多くの旧友や盟友と決別することになった。英雄的指導力の重要性に対する彼の信念は『英雄および英雄崇拝論(ならびに歴史上の英雄たち)』として形をなしたが、同書においては、オリヴァー・クロムウェル、ウィリアム・シェイクスピア、預言者ムハンマドなどを含む多様な型の英雄が比較されている。
文士としての英雄(引用)
・書物の中には、過去という時間全体に帰属する一つの魂が宿っている。この一なる魂は過去なるものの、分節化された可聴的な声であるが、過去なるものにおいては、身体ならびに身体の物質は完全に消滅している、さながら一夜の夢のように。
・一人の人間は、なにごとかを信じることによって生を得る。多数多様のことについて討論したり論戦したりすることによってではない。
・人類が行い、思考し、獲得した唯一のもの、あるいは人類がずっとそのように存在してきた唯一のありよう。それが書物のページのうちに魔術的に保存されたかのごとくに宿っているものだ。
・我々がいかなる人格となるかは、教師のもとを離れた後になにを読むかにかかっている。最良の大学は、書物に他ならない。
・苦悩する人間とは実に、自ら吐き出した煙を吸い込んでいるようなものだ。火を起こせないのであれば、煙を吐き出すことに何の意味があるか。
・逆境とは時として人間に冷酷である。しかし繁栄に耐えうる人間が1人いるとすれば、逆境に耐えうる人間など100人はいるであろう。
産業革命を目撃してなお超越主義的な非物質主義的世界観を固持した数少ない哲学者の一人として、トマス・カーライルは、歴史的人物を座標として用いることで人間知性発展の全体像を描出しようと企て、「預言者としての英雄」と題した章を設けることによって、預言者ムハンマドを全体中の特異点に位置づけた。カーライルは、著作中で、ムハンマドを賞賛し、ヘーゲル主義的な改革の実行者とみなして情熱的に擁護している。その際カーライルは一貫してムハンマドの誠実さを力説し、「一人の人間が、独力で、20年もかからずに、抗争する諸部族とさまよえるベドウィンを融和させ、きわめて強大で文明的な国民的人間集団(nation)をつくりだしてしまうとは」と論評している。カーライルにとっての英雄は、アリストテレスにとっての「徳の高い(Magnanimous)」人間に似たところがある―――すなわち、最も完全な意味で隆盛せる(flourished in the fullest sense)人物である。しかしアリストテレスとは違い、カーライルにおいては、世界は英雄が対処するべき矛盾に満ちていた。いかなる英雄にも欠点が伴う。カーライル的英雄たちの英雄性は、困難に直面してなおひるまない創造的エネルギーにこそあるのであって、道徳的完全性にあるのではない。こうした英雄をその欠点ゆえに嘲笑するがごときは、因習になぐさめを見出す種類の人々の思想である。カーライルはこれを、「従者(valet)の目には英雄なし」という格言をもじって「下衆の勘ぐり(valetism)」と呼んだ。
以上の著作はどれも当時影響力をもったが、とくに挙げるとチャールズ・ディケンズやジョン・ラスキンといった作家に影響を与えた。しかし、1848年革命と連合王国における政治的煽動のあと、カーライルは ”Latter-Day Pamphlets” (1850) と題した評論集を出版し、そのなかで民主主義を理不尽な社会理想だと非難したが、一方で世襲貴族による社会指導をも非難している。後者は社会から生気を失わせ、前者は、真理が票を数え上げれば発見されうるなどと思い込んでおり、無分別だ。統治は最も有能な人間たちによって担われるべきである。しかし、そのような有能者を見出し、その指導に従う方法については、カーライルは明確な発言を行なえていない。
カーライルは、後期の著作では、歴史上の英雄的指導の実例を熱心に検証した。『クロムウェル伝』(1845)はクロムウェルに対して肯定的な人物像を提示している。すなわち、当時沸き起こった対立的な改革諸力を糾合して秩序を生み出そうとした人物、という解釈である。カーライルはクロムウェル自身のことばを直接引用することで、クロムウェルのことばにそれ自体の純粋な生命を持たせようと努め、そのことばをクロムウェル当時の困難な状況における意義によって評した。これもまた、読者に対して「過去」を「現在」ならしめんとする企図であった。
永続的然りと否
永続的然りとは、永続的否に対する明瞭で、断固たる、一貫した、妥協なき敵意を明白に示した姿勢における、神への信頼の精神を、カーライルなりに表現した名前であり、神に対立する精神へのこうした敵意のほかには神への信仰など存在しないという根本原理を表現した名前である。
永続的否とは、神を信じない精神をカーライルなりに表現した名前であるが、これはとくに、それ(神を信じない精神)に対するカーライル自身あるいはむしろ Teufelsdroeckh の闘争のなかで浮き彫りとなっていたものだ。このような精神は、ゲーテのメフィストフェレスに具現化されていたものだが、人類の思想、性格、生命に宿る神的なものの実在性を永遠に否定し続け、高遠で高貴なものを浅薄で空虚なものだとあざけることで悪魔的な悦びを得る(der stets verneint:derは定冠詞。stetは「たえまなく」の副詞。verneint はverneinen [否と答える]の現在分詞。英語にすると:the constantly denying [person]ということ)。
『衣裳哲学』では、語り手は「永続的否」から「永続的然り」へと移行するが、「無関心な中心点」を経てのことである。この点は不可知論の立場であるだけではなく、世俗に対し超然的な立場でもある。欲望と思い込みを減じ、仏陀的な「無関心」を目指して修養した後にしか、語り手は肯定へと向かうことはかなわない。これはある意味において、当時の哲学者セーレン・キルケゴールの『完結的、非学問的な後書き』に出てくる「信仰の飛躍」に似ている。
上述の「敵意」に関しては、ウィリアム・ブレイクの有名なことば「反対がないことが前進なのではない」が思い出されるかもしれないが、カーライルにおける永続的否から永続的然りへの前進は(彼の言う)「無関心な中心点」で見出されるものではなく、自然主義的な超自然主義の立場でこそ見出されるものだ。すなわち、日常の中に神的なものを見出す超越主義的哲学である。
Worship of Silence and Sorrow
カーライルは、キリスト教を「嘆きの崇拝」また「人類の息子に対する、人類至上の宗教」と呼んだゲーテに依拠して、これを解釈しつつ、「高貴な冠など存在せず、お似合いの冠も、不釣合いな冠も存在せず、ただ茨の冠が存在するのみ」と付け加えた。
“Worship of Silence” とは、「思想が沈黙のうちに自らを成熟させ…なんらかの意味が裏に生まれ力を発揮し始めるまで口をつぐんでいるようになる」までは発言をつつしむことに対する神聖な敬意をカーライルなりに表現した名前であり、多くの人がわがまま勝手に誤解している教義である。おそらく、カーライルにとっては、沈黙こそがあらゆる偉大なものが生まれてくる揺籃であったのだろう。
後期著作
カーライル最後の著作は、フリードリッヒ大王(1858-1865)の叙事伝だった。同書においてカーライルは、一人の英雄的指導者がどのように国家を鍛え上げ、ひとつの国民に新しい道徳的文化を創出する契機となるかを示そうとした。カーライルの目には、フリードリッヒ大王は18世紀の自由主義的啓蒙思想から新しい精神的躍動の現代文化への過渡期の縮図のような人物と映った。そしてその精神的躍動の文化は、ドイツによって、その思想、その政体によって体現された。同書は、フリードリッヒ大王の戦役に対する鮮烈で、偏見だらけの描写で名高いが、そこでカーライルが伝えようとしたのは、克服不能にみえる混乱も天才の指導力によって制圧されるという彼一流の展望なのだ。しかし、本書の執筆にまつわる労苦は彼に重い代償を強いた。カーライルは徐々に抑鬱傾向を示すようになり、おそらくは精神身体的な不安定性にさまざま悩まされるようになった。この複合的な受難が、カーライルの文学的多産性を減退させるのに与って力がなかったはずはない。
後期著作は全体的に短い評論であり、カーライル自身の政治的立場の硬化を示すことが多い。彼の悪名高い人種主義的評論 “An Occasional Discourse on the Nigger Question” は、奴隷制は廃止されるべきではなかったという見解を提示していた。奴隷制度は秩序を維持し、それがなければ怠惰で無為であった人々から労働力を引き出していた、と彼は考えた。このような主張――また、ジャマイカ総督エドワード・エアの抑圧的措置を支持したこと――はさらに追い討ちとなり、カーライルは旧来の自由主義的盟友たちと疎遠になっていった。エアは叛乱の鎮圧に際した残虐な私刑のかどで告発されていた。カーライルはエアを擁護するために委員となり、一方ミルはエアの訴追を組織したのだった。
私生活
カーライルはジェーン・ウェルシュと結婚する以前に多数の実らぬ恋をした。最も有名なのが、彼の友人エドワード・アーヴィングの教え子マーガレット・ゴードンとのものだ。ジェーンと出会って以後も、彼は英国人仕官とインド人貴婦人の娘であるキティ・カークパトリックに恋をしている。 White Mughals の著者ウィリアム・ダルリンプルによれば、相思相愛であったらしいが、社会的状況からして結婚は不可能であった。というのは当時カーライルは貧乏だったのである。マーガレットとキティの二人は、『衣裳哲学』の Teufelsdroech が恋い慕う Blumine のモデルではないかといわれている。
カーライルは1826年にジェーン・ウェルシュと結婚したが、この結婚はあまり幸福なものではなかった。カーライルとその妻の間に交わされた書簡は公刊されているが、それを見ると両者の間にはたびたびのいさかいで悩まされたものの、一定の愛情はあったようだ。(サミュエル・バトラーはかつてこう書いた:カーライルとカーライル夫人を互いに結婚させ、この二人だけを不幸にして4人を不幸にすることがなかったとは、神は実に慈悲深い)
カーライルは時を追うごとに妻と疎遠になっていった。彼女はしばらくの期間病身となっていたが、その死(1866)は唐突なもので、彼を絶望の淵に叩き込んだ。そのころ彼はきわめて自己批判的な “Reminiscences of Jane Welsh Carlyle” を書いている。この著作は彼の死後、伝記作者ジェームズ・アンソニー・フルードによって刊行されたが、フルードはこの結婚が形骸的なものだったという確信を表明している。このような率直さは、表敬的であることが普通であった当時の伝記としては前例がない。フルードの見解はカーライルの家族、とくに彼の甥アレクサンダー・カーライルから非難を受けた。
しかしながら、問題の伝記は、英雄の欠点は公然と議論されるべきであり、それで英雄の業績が矮小化されるものではないというカーライル自身の信念とも合致する。フルードは、カーライル本人から将来の伝記作家として指名されていた人物であり、その信念を鋭く意識していた。その判断に対するフルード自身の自己弁護である「私とカーライル」は1903年に公表され、カーライルの1873年遺書の複写も収録されていたが、そのなかでカーライルはあいまいな言い方をしている:「私は、存在するべきでないような、赤裸々な伝記を望む」。しかしやはり、それと同時に、そして完全に、カーライルはこの件についての判断をフルードに任せており、彼の「判断は私自身の判断だと思ってもらってよい」と述べている。
1866年ジェーン・カーライルの死の後、トマス・カーライルは活動的な世界から半ば引退してしまった。彼はエディンバラ大学の総長に指名された。The Early Kings of Norway: Also an Essay on the Portraits of John Knox が1875年に世に出た。彼は最晩年を 24 Cheyne Row, Chelsea, London SW3 で過ごした(この場所は現在彼の生涯と作品を記念してナショナルトラストの保有物となっている)が、常々 Craigenputtock に戻りたがっていた。
1881年2月5日ロンドンでの死に際して、カーライルの遺体はウェストミンスター教会に埋葬することも許されていたが、Ecclefechan の両親と並んで埋葬して欲しいという本人の希望が尊重された。
後世への影響
トマス・カーライルは、18世紀イングランドのトーリー的諷刺家の古い伝統を保ったことと並び、sage writing と呼ばれるヴィクトリア時代の進歩的批評の新様式を確立したことでも名高い。『衣裳哲学』はジョナサン・スウィフトやローレンス・スターンの混沌とした懐疑主義的諷刺の延長ともみなせるし、新しい価値観から来る視点の創始ともみなせる。カーライルが生み出した人間嫌いの語り手教授は、俗世をうつろなものとみなし、精神を革命する必要があることを発見する。ある意味で、このような解答の見出し方はロマン主義時代の革命、個人主義、情熱の宣揚と通ずるものがあるといえるが、より広い共同体を見出そうという機運がまったくない現代的生の問題に対する虚無主義的で私的な解答であるともいえる。
マシュー・アーノルドのようなのちの英国人批評家および sage writer たちもカーライルと同じように衆愚と素朴すぎる進歩観を非難しており、ほかにも、ジョン・ラスキンのように、当時の絶えざる工業生産への志向を拒絶した人たちはいた。だが、カーライルに追随して狭く弧絶した解法を選び取ったものは少なく、英雄崇拝を共有するに至った人々ですら、カーライルほど弱者に対し無慈悲ではなかった。
カーライルは、ドイツロマン主義文学を英国に紹介する上でも重大な貢献を成している。サミュエル・テイラー・コウルリッジもシラーを顕揚した一人だが、カーライルがシラーとゲーテのためになした苦労は実を結んだといってよかろう。
カーライルは、合衆国南部の一部奴隷所有者たちに好意的な印象を持っていた。彼の保守主義と資本主義批判は、ジョージ・フィッツヒューのような、資本主義の代替案として奴隷制を擁護したがっていた人々によって熱烈に復唱された。
カーライル初期作品の名声は、19世紀の間は高いものであり続けたが、20世紀には失墜してしまった。ドイツにおける名声は常に高かったが、これは彼がドイツ思想を宣伝し、フリードリヒ大王の伝記を書いたからである。フリードリヒ・ニーチェは、いくつかの点でカーライルと思想的に類似しているが、カーライルの道徳主義には冷淡で、『善悪の彼岸』のなかで「無味乾燥な鈍物」とこきおろし、ニーチェにとってはそれを非難することが職業のようになっていた小者根性から自己を解放し損ねた思想家の一人だとみなした。カーライルの民主主義嫌いとカリスマ的指導性の正義に対する信念がアドルフ・ヒトラーの関心を引いたとしても驚くに価するまいが、ヒトラーは1945年の最晩年にカーライルのフリードリヒ大王伝を読んでいた。
このようなファシズムとの関連性が戦後期にカーライルの評判を損なったが、『衣裳哲学』は最近、実存主義からポストモダニズムに至る多くの哲学的ならびに文化的に重大な進展を予想した比類のない傑作として再び認知されている。また、『フランス革命史』で語られたイデオロギー的図式に対するカーライルの批判は、革命的文化が抑圧的教条主義に変貌してしまうさまをたくみにとらえたものだという主張もある。本質的にロマン主義的思想家であるカーライルは、感情や自由の肯定と歴史的および政治的事実の尊重とを調和させようという企図を持っていた。しかしながら、カーライルは常に、その葛藤が捧げられる具体的目的ではなく、英雄的葛藤それ自体の観念にこそ、より強く魅了されていたのである。
用語の定義
カーライルは独特な用語を極めて多数駆使したが、それらは the Nuttall Encyclopedia に集められている。一部をここで紹介する:
Centre of Immensities
カーライル独特の表現。誰がどこにいようとも、その人は存在の全宇宙と接触しており、そのことを自覚できている場合には、その人が存在しうるほかのいかなる点にも劣らずそここそが全宇宙の中心に近い地点であることを意味する。
Eleutheromania
自由に焦がれる熱狂あるいは狂乱的熱望
Gigman
人格の高さこそを矜持とし、また、尊重するような人間を指してカーライルがつけた名前。この語は、昔法廷で、その事件の判事から ”one that keeps a gig(一頭立て二輪馬車を一台所有する人)” という言葉でなにを意味しているのかと質問された、信頼のおける人物だと記述されている証人によって示された表現に由来している。カーライルは、一般称として ”gigmanity” とも表現する。
Hallowed Fire
カーライル独特の表現。「その発生と拡散の段階にある」キリスト教を聖なるものとして描写したもので、人間の魂の中に宿る神聖で神的なものを煽り立て、そうでないものを焼き払う。
Mights And Rights
権利は力として自らを実現し確立しないうちは無に等しい、そうなったとき初めて権利となる、というカーライルの根本思想。
Pig-Philosophy
カーライルが Latter-Day Pamphlets の中の、イエズス会主義についての評論中で用いた名詞。当時広く普及していた思潮を言うもので、人間を霊魂を備えた神の被造物ではなく単なる欲の生き物であって、欲求の充足――それこそが人間の天国であり、その反対が地獄である――以上の高尚な幸福観念などないとする思潮。
Plugston of Undershot
カーライル独特の名詞。「産業の指導者」あるいは製造業階級の成員を指す。
Present Time
カーライルによると、「無時間的永遠の中から生まれた最も幼いもので、あらゆる過去時代の子供にして相続人、過去の善と悪を背負い、新たな問題と意味とを抱えたすべての未来の親」である。
Prinzenraub
(貴公子誘拐の意) Kunz von Kaufingen が、私怨から、1455年7月7日夜にAltenburg城の2人のザクセン人貴公子を拉致しようとした企てを指して使った名前。この企てにおいてKunz は Schmidt という名の坑夫の手で捕らえられて失敗し、この Schmidt を介して司法に引き渡され首をはねられた。詳しくはカーライルの ”Miscellanies” の記事を読まれたい。
Printed Paper
革命以前のフランス文学を揶揄してカーライルがつけた名前
Progress of the Species Magazines
切迫した問題に関して前進する助けとはならないくせに、事実だけをむなしく吹聴して自らの功を誇り、さながら、暴走する戦車の車軸にとまって「ものすごい埃をまきあげるかっこいいオレサマ」とうそぶくフランス詩人ラ・フォンテーヌの蝿のような、当時の文学を指してカーライルが用いた名称。
The Conflux of Eternities
時間を意味するカーライルの含蓄に富む文句。時間の各瞬間の中にあって、無時間的永遠へのそして無時間的永遠からのあらゆる諸力が集合し統合を果たす中心点のようなもの。時間とはそのようなものであるから、我々は、いかなる過去によっても、いかなる未来によっても、時間上のどの瞬間であれその時現在に位置しているところより、無時間的永遠に近くなることは出来ない。現在時間とは、無時間的永遠の中から生まれた最も幼いもので、あらゆる過去時代の子供にして相続人、過去の善と悪を背負い、新たな問題と意味とを抱えたすべての未来の親である。したがって、この現在時間の意義を知り、無時間的永遠が現在時間をつかみまた現在時間が無時間的永遠をつかむ唯一の接続路として中心に据えることこそが、あらゆる偉大な時代の、そして特にその時代の指導者の第一にして至尊の責務なのである。
| 固定リンク

