« お歳暮に小倉織アイテムを購入 | トップページ | ウィキ英語版「マグダラのマリヤ」和訳 »

ウィキ英語版「カルロ・クリヴェッリ」和訳

ワタクシをよく知る人々は、ワタクシの審美眼が歪んでいると思いがちです。というのも、世間で一般に美人だといわれている女性を見てもまったく綺麗だと思わないからです。しかしそろそろ周囲の認識こそ誤解であることを証明しよう、とさっきプレミアリーグのマンチェスターUvsエヴァートンが一方的になってきてもう見なくていいやと感じた瞬間に思い立ちました(ワタクシは前半0-0、後半1-1で終わるような試合が好きです)。しかしどうやって証明するのか、そうだ美人だと思うサンプル画像を示せば良いではないか。そう思ったわけです。
ワタクシは断じて審美眼に劣っているのではない!造形上の美は芸術にまかせて、生身の人間にはもっと内面的なつながりの美しさしか求めなくなっているのだ、証拠を示そう、たとえばこれこそが美人である!!!
クリヴェッリの『マグダラのマリア』
と示そうと考えたはよいものの、クリヴェッリについて説明できるほど知識がないので、訊かれたら困るなと思い、いつものごとくウィキ英語版で薄く勉強しました。
以下ワタクシ訳。いろいろ確信が持てないところもあります。イッターリアの地名人名とか。

原文
http://en.wikipedia.org/wiki/Carlo_Crivelli

------------------------------------

カルロ・クリヴェッリ

カルロ・クリヴェッリ(1435ごろ-1495)は、保守的な後期ゴシック的感性をそなえた装飾美術をこととしたイタリアルネサンス画家で、職歴の大半をマルケで過ごした。そこでクリヴェッリははじめ、ヴィヴァリーニ、スクァルチオーネ、マンテーニャから影響を受け、ヴェネチアの同時代人であるジオヴァンニ・ベッリーニと対照をなす彼独自の様式を練り上げていった。

伝記
クリヴェッリは1430-35年頃ヴェネチアで画家一家に生れ、画家としての教育をヴェネチアならびにパドヴァで受けた。イタリア文書館の一世紀にわたる調査にもかかわらず、クリヴェッリの経歴についての詳細は未だ情報が少ない。まず1457年、すでに自分の工房で親方になっていた彼が姦通の罪で6ヶ月投獄されたという記録、彼の絵画に記された最も古い年代である1468年(フェルモ付近マッサ・フェルマナの聖シルヴェストロ教会の祭壇)、最も新しい年代である1493年(ミラノのブレラ美術館所蔵の『聖ヨハネ、聖処女、マグダラのマリアの間で死せるキリスト』)が、彼の画家としての人生に関して確信をもって述べ得る唯一の日付である。
クリヴェッリは、多少の異同はあるが「ヴェネチアのカルロ・クリヴェッリ」という署名を用いて、自らがヴェネチア生れであることを明言していたが、仕事のほとんどをアンコナのマルケで、とくにアスコリ・ピチェーノ近辺で行なっていたようだ。ヴェネチアに残存しているのは、聖セバスチアノ教会の2点だけである。クリヴェッリは、遅くとも1436年には創作活動を開始していたフィオーレのジャコベッロの下で修行を積んだといわれている。ジャコベッロの下にいた時点では、クリヴェッリはおそらくまだ少年だった。クリヴェッリはヴェネチアでヴィヴァリーニ一派からも教育を受け、その後ヴェネチアを去って、まずはパドヴァに向かい、そこでフランチェスコ・スクァルチオーネの工房に入って働き、その後1459年、水夫の妻タルシア・コルテセという既婚女性と姦通したかどで禁固6ヶ月という判決を受けた司法的ごたごたの後、ダルマチア(現在はクロアチアの一部だが、当時はヴェネチア領だった)のザーラに移った、というのが通説になっている。
在世中に油彩画が普及するようになっていたが、クリヴェッリはテンペラ画しか描かなかった。しかもパネル画しか描かなかった。ただしカンヴァスに移植された絵画は一部存在する。背景に金箔を押して飾り立てることを彼が好んでいるように見えるのは、彼の保守的趣味の現れの一つであるが、部分的にはパトロンからの要請でもあった。クリヴェッリは菜食主義者だった。彼の初期の多翼祭壇画のうち、オリジナルの枠のまま完全に現存しているのは、アスコリピチェーノの祭壇一つだけである。他の多翼祭壇画は分解され、パネルと飾台の絵は世界中の美術館に分散してしまっている。
同時代人ならびにのちの追随者たちは、不定形の集団ながら、クリヴェレスキと呼ばれ、それぞれの度合いで、クリヴェッリの様式と似通った点を示している。

作品
そのころフィレンツェで起こった自然主義的トレンドとは異なり、クリヴェッリの様式は荘厳で国際的なゴシック的感性を響かせている。都市的背景は宝石のように、精緻な隠喩的細部をふんだんに盛り込んで描かれている。
彼は緑を背景に描くことも好んでおり、装飾的題材として果実や花を独特のやり方で使用することも、彼の作品の個性と言える。そうした花々は、花綱のペンダントとして描かれることが多かったが、これはクリヴェッリも働いたと思われるパドヴァのフランチェスコ・スクァルチオーネのスタジオに見られる特徴である。ロンドンのナショナルギャラリーは、クリヴェッリ作品を多数保有している:おそらくクリヴェッリの最も有名な作品である『受胎告知』、宗教的法悦を描いた『福者ガブルエレ・フェレッティの幻視』(教皇ピウス9世と同じ家系である)が、特に重要である。クリヴェッリの主要作品は、サン・フランチェスコ・ディ・マテリカにもう一点ある。ベルリンには、『聖母と聖人たち(1491)』、ヴァティカン美術館には『死せるキリスト』、ストラスブール美術館には『羊飼いたちの礼拝』、ミラノのブレラ美術館には『蝋燭の聖母』がある。アメリカの重要美術館のいくつかにも、彼の作品が所蔵されている。
クリヴェッリはヴェネチア生れだが、彼の作品には線的なウンブリア画派の特徴がそなわっている。クリヴェッリは個をはっきりと描く画家である。同時代のジオヴァンニ・ベッリーニとは異なり、クリヴェッリの作品は「ソフト」ではなく、輪郭が明瞭かつ明確で、細部に対するこだわりは驚嘆すべきものである。クリヴェッリの「トロンプルイユ」技法の使用は、ロジャー・ヴァン・デア・ヴァイデンのような北方ルネサンス画家たちと比べられることが多いが、涙や「宝石」などの物体をパネル上にゲッソで盛り上げて形成するようなことも含まれている。クリヴェッリの作品は、アスコリのフランシスコ会士ならびにドミニコ会士から依頼されていたため、もっぱら宗教的な性格をしている。クリヴェッリの絵画作品は、大部分が、聖母子像、ピエタ、そして、多翼祭壇画と呼ばれる、当時すでに古くさいと見られていたタイプの祭壇装飾で構成されている。クリヴェッリの作品は、キリストの手と体側に開かれた傷口、悲嘆に歪む残された者たちの口など、画面じゅうが苦痛の映像で満たされていることが多く、パトロンの精神的要求に的確に応えている。こうした徹底的写実性、ときとして作品全体の質を落としかねない特徴が批判を誘い、クリヴェッリの絵画は同胞である北イタリア画家コジモ・トゥーラと同じく「グロテスク」という烙印を押されることも多かった。
協働する画家が少なかったため、意思統一が強まった、あるいは資材の指揮権が一本化されていたようだ。この迷いのなさが、彼が受けた数多くの名誉ある依頼として実を結んだ。カルロ・クリヴェッリがドナト・クリヴェッリ(1459年にはすでに活動していた。ジャコベッロの教え子でもあった)と同じ家系である可能性もある。ときおり共同作業を行なったヴィットーリオ・クリヴェッリは実弟である。ドイツ/オーストリアとマルケを移動した画家ピエトロ・アレマノは、クリヴェッリの弟子/共同作業者である。
カルロ・クリヴェッリは1495年頃マルケ(の、おそらくアスコリピチェーノ)で亡くなった。彼の作品は死後世間の支持を失い、ヴァザーリの芸術家列伝(きわめてフィレンツェ中心的なものだが)では言及されていない。クリヴェッリは、とりわけ英国において、ラファエル前派画家たちの時代にルネサンス(復興)されたようなものだ。エドワード・バーン-ジョーンズを含むラファエル前派画家の幾人かが、クリヴェッリの崇拝者だったのである。クリヴェッリ作品に対する崇拝は、モダニスト時代にラファエル前派が衰退したことで衰退してしまったが、彼の創作に対する最近の著作と、ロンドンナショナルギャラリーにおける作品の再紹介により、再び関心が高まりつつある。






|

« お歳暮に小倉織アイテムを購入 | トップページ | ウィキ英語版「マグダラのマリヤ」和訳 »